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2009年 09月 14日

ムム、『家老渡』じゃなくて『鹿老渡』だった

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ベッドに横たわって、枕元に置いてある数冊の本の中から『日本の海洋民』(宮本常一、川添登編、未来社刊)を選んでパラパラとめくっていると『近世海運の発展と瀬戸内海』なる項目にぶち当たった。
一度読んだ本だけど、「こんなのあったかな~」の記憶だから、もう一度読み直すことに。
和歌山の田辺は熊野(九鬼)水軍の本拠地、香川・丸亀沖の二十八の島々塩飽(しわく)諸島は塩飽水軍の拠点、その西側一帯の瀬戸内海は来島・因島・能島の三筋からなる水上水軍の支配地帯。
水軍といえば聞こえはいいが、水先案内はともかく、通行料を掠め取り、襲い掛かって金品、積荷をふんだくる海賊業
d0007653_10563150.jpg先月セーリング・クルーザー『Hinano』で通った海道は「潮の流れを熟知した彼らに島影で待ち伏せをくらえば、抵抗する術はなかったに違いない」と、本の記述と島々の連なりがシンフォニーして、すんなりと頭に入って行きます。
給油のために立ち寄った広島・江田島のもう一つ沖側にある倉橋島の、小さなフェリー乗り場『KAROUWATASHI』の看板見て、「領内視察の家老がここから船で隣りの島へ行ったんと違うかあ?」などと。
本を読んで『鹿老渡』と書く、瀬戸内の風待ち港だったこと初めて知りました。
小さな港で『HINANO』は停泊中の漁船に横付けするスペースしかありませんでしたが、結構重要な中継地だったようです。

日本海を敦賀、若狭まで南下し、そこから琵琶湖と陸路で京都、大阪に荷を運んでいた北の幸満載の北前船が、下関を回って瀬戸内海経由、直接商都・大阪まで荷を運べるようになるのは一六四七年(寛永十六年)。
奥羽~江戸間の太平洋岸コース乗り切りに成功するのはさらに遅く一六七一年(寛文十一年)。
日本中の港を船で訪れられるようになるのは蒸気機関を持った鉄船が作られるようになる一八七七年(明治十年)以降とある。
鎖国令のお蔭で海には外洋航行の出来ない、追っ手の風だけでしか走れない千石船ばかりが浮かんでいた訳で、『海国日本』なんて標語は軍部のプロパガンダに過ぎない歴史がつづられている。
家康の鎖国令以前にも、日本には百済の要請受けて朝鮮に送った八百隻越える軍団が白村江(はくすきのえ=六六三年)の戦いで唐・新羅連合軍にコテンパンに叩かれ、命からがら逃げ帰った史実がある。
大和朝廷は以後内に閉じこもっちゃうからこれもまた鎖国、船の発展は操船術を含め、世界で最も遅れることになったようだ。

白村江の戦い、NHKをコテンパンの記述はこれ
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by molamola-manbow | 2009-09-14 05:18 | ヨット | Trackback | Comments(0)
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