2012年 05月 05日
江戸時代後期の書『江戸名所図会』の改訂版を読んでいる。 いまは町名が変更されちゃって、どの辺りにお住まいだったのか判りませんが、神田矢島町の名主、斉藤長秋、莞斎、月岑の親子三人が三十年をかけて完成させた七巻二十冊の労作だといいます。 例えば渋谷の『道玄坂』、こんな感じで綴られている。 富士見坂(現在の宮益坂のことです)の下、耕地を隔てた向こうの方、西へ向かう坂をいう。 この坂を登り、三町ほど行けば、岐(わか)れ道あり。 直路(すぐじ)は大山道にして三軒茶屋より登戸、二子の渡しへと通ず。 右へ行けば駒場野を通り北沢淡島への道なり、世田谷に行く道なり。 そうだ、そうだ、そのとおりだ、と読んでると・・・・・ 里諺(りげん)に云う、和田義盛(1147~1213年)が一党・小山田道元、建暦三年(1213年)に滅亡せしおり、残党この所の窟中に隠れ住みて山賊を生業とす。 ゆえに道玄坂という、とありました。 当時の写真、浮世絵が配されてて、微にいり細にいりの紹介です。 飛び越えることも可能なほど小さな世田谷の小川・蛇崩川(現在緑道)に架かる小橋まであります。 いわく、 三軒茶屋の角より向こうへ三町ばかり入りて、小溝に渡す石橋を『常盤橋』(← ←)と名付く。 里諺に云う、むかし吉良頼康の妾・常盤、不義のことありてこのところにて害さる。 しかるにその霊、里人に祟りす。 よってその霊を弁天(若林・駒留八幡宮の弁天)に崇め、その腹に出生の男子を若宮八幡と祟め奉る。 現在(⇦ ⇦)と江戸(⇨ ⇨) 招き猫の元祖とされる『豪徳寺』、井伊家の殿様が巻き狩りの途中に立ち寄って和尚さんと意気投合、菩提寺にしたところまでは書かれているけど、門前でおいでおいでする猫につられて立ち寄って、夕立を免れたとされる言い伝えは一行もありません。 招き猫伝説、天保七年以降に作られた偽モノなんでしょうか? 名所案内には打って付けのお話ですものね。 泉岳寺の属寺だったとは知らなかった。 労作完成は天保七年(1836年)、大塩平八郎の乱の前年です。 天保の大飢饉(同十五年)などもあって徳川幕府が傾きはじめる時代だ。 全巻を読み通す勇気も根気もないので、手元に置いて時折り拾い読みすることになりそうですが、つくづく思います。 「偉い人も居たもんだ!」
by molamola-manbow
| 2012-05-05 10:10
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