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2014年 05月 29日

  堀江謙一以前に太平洋を帆船で渡った先駆者 その4

昭和5210 月にスポーツニッポン紙が四回続きで連載した『八幡浜の大正のジョン万次郎たち』(⇩ ⇩)。
小島敦夫著の『密航漁師 吉田亀三郎の生涯』は、コイツを取材し直す段階で浮かび上がった。
聞き回っている内に「新聞のアノ人らはホンケじゃあありませんぜ、アメリカ亀やん、吉田亀三郎がホンケモンですら
ホンケの意味、本家を指すのか、本物を指すのか・・・・・。
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明治時代の北アメリカは労働力不足が顕著で、働き手をあらゆる業種が欲しがっていた。
正規の移民に加え、不良船員に礼金を支払って貨客船の倉庫に隠れ、、到着と同時に夜陰に紛れる。
そんな密航がかなり横行した背景があった。
日本と向こうの賃金格差には大きな開きがあって、数年働いて帰国すれば立派な家が建てられたのです。
連載記事は大金を稼いだ正規移民の話と、貨客船に隠れた密航などの話がゴッチャ。
打瀬船により密航に関しても、漂流紛いの苦難の到着を書き、大正時代初期に帆船で太平洋を乗り越えた意義には触れていない。
吉田亀三郎は明治45 年の住吉丸、翌大正2 年(明治45 年は30 日から年号が大正に変わる)の東行丸と、二度に渡って太平洋を越えている。
ホンケモン、アメリカ亀やんまで到達出来なかったのは、ここら辺りが原因だったに違いない。
愛媛・宇和海からこの後に続いた四隻の内の天神丸にスポットを当てた記事になってしまった。

d0007653_11451268.jpg   ▼みかど丸(金毘羅丸=大正 年)魚崎亀吉船頭ら9人、全長20m
   ▼天神丸(大正 年)上野菊松船頭ら15人全長、17m
   ▼大福丸(大正 年)石岡正一船頭ら8人、全長19m
   ▼琴平丸(大正 年)牧野彦六船頭ら7人、全長14m

上記の船、全てが宇和海で底曳き漁を行っていた帆船・打瀬船です。
打瀬とは船を横向きにして面積を広げ、風に任せて引く網のことを指す言葉が最初、ここから打瀬網で底曳漁をする漁船を意味するようになったらしい。

相次いで太平洋を乗り切った六隻もの打瀬船は、間切り性能(風上への航行)の悪い和船の常識を覆す快挙です。
何処に特徴があったのかを、海洋ジャーナリストの筆者は解説しています。
当時の和船で使用されていた帆掛け船スタイルの横帆と異なり、中国のジャンクに似た縦帆を使用していたんだと。

d0007653_11443310.jpg現在のヨット同様に横風を前進力に変えられる帆、「漁の最中はの~んびりと風上に向かって網を引くが、風下まで遠く持って行かれた船を、風に逆らって帰ることになる漁の必然が生んだ帆であろう」
このドでかい網を収納するスペースを、打瀬船が持っていたことも長期の外洋クルージングを可能にさせた。
作業効率を上げるために甲板を板で覆っていた構造も船底への波の侵入を防いだらしい。
従来の和船は甲板が丸裸で、打ち込む波には極端に弱かった。
千葉・木更津から兵庫・西宮に居を移した『KoKoLo』( ➡ ➡ )はHaiibery Rassy31 フィート。
吉田亀三郎の『住吉丸』は、現在のクルージングヨットの主流艇、34~35 フィート辺りの大きさでした。
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by molamola-manbow | 2014-05-29 10:49 | ヨット | Trackback | Comments(0)
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