2005年 09月 12日
直径30センチほどの切り株の上に柿渋で染めた麻布を乗せ、そいつを打ち出の小槌の打面?に、柄を付けた形の木槌でリズミカルに叩き続ける。 「ドンツク ドンドン ツクツク」 と団扇太鼓を叩く、とっても煩い、奈良が本家の宗教も顔負けだ。 これを毎晩、連れ合いが「わたしの夜なべ仕事」と称してやり始めた。 「何だそれ?」と尋ねると 「これがキヌタ打ち。布に光沢が出てくるの」と得意げである。 「黙っていると、「成城のお隣り、砧の地名はこれが語源」と、追い討ちを掛けてきた。 多分、このときのわたしの顔が、「フーン」と感心しているように見えたのだろう、冗談じゃない。 「律令制度の租傭調よ。調布という町があるじゃない。あそこには布田とか、染地などという、布や染色に関係した地名がまだ残っている。砧で打って仕上げた布を、調布に納めたのじゃないかしら」 と更なる追い討ちである。 同じ手法で藁を打ち、柔らかくしてから縄を編んだり、ムシロも作る。 だから布だって手触りは好くなるのだろう。 とは思ったけれど、反撃は別の方角からすることにして 砧を成城のお隣りと言うのは砧に失礼だろう」と言ってやった。 連れ合いがキョトーンとしているから、薀蓄をたれてやる。 成城という地名は、砧村の大地主・鈴木久弥さんから土地1万坪と1万円(公務員の給与が75円だった時代です=値段の風俗史・朝日新聞編)の寄付を受けた成城学園(創設者・沢柳政太郎)が、大正14年に新宿から移転したのが始まりであること。 昭和2年の小田急線開通を見越した学園の主事・小原国芳が、学園周辺の土地2万坪を購入して宅地として売り出し、これを学園建設の資金にしたことで、荒野に忽然として町が出現するようになったこと。 小原国芳は同じ手法で小田急線の多摩川を渡った向こう側に、玉川学園(昭和4年の創立)も作ったこと。 昭和2年の小田急線開通まではスクールバスならぬスクール馬車が、カッパ、カッパと京王線の千歳烏山駅から成城まで、生徒たちを送り迎えしていたこと。 小田急線は部分開通を良しとせず、新宿ー小田原間の路線を一気に開通させて営業を始めた珍しい記録の持ち主であること。 「つまりだなあ、いまでこそ高級住宅地としてでっかい顔をしている成城も、元を質せば北多摩郡砧村の、そのまた片隅に位置する雑木林、狐や狸の棲家だったのさ。砧村の大地主・鈴木さんの太っ腹が無かったら、成城なんて町は存在もしていない。何が成城のお隣りの砧だ、どうだ、参ったか!」 小泉純一郎のような論旨の摩り替え、言いたいことだけを言う手法だ。
by molamola-manbow
| 2005-09-12 09:19
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